現代佛師による図像抄 Wii LOVE BUDDHIST IMAGE

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 ク ラ ス : 釈迦如来大般若
 俗  名: 姓は陳(チン)、名は褘(イ)、字は玄奘(ゲンゾウ)
 尊  称: 三蔵法師

 中国唐代の僧。法相宗の開祖。
 生年602年、没年664年、河南省陳留県の生まれ。
 鳩摩羅什と並ぶ二大訳聖、また真諦と不空金剛を含めた四大訳経家と呼ばれる。
 629年、陸路で天竺(インド)に向かい、各地への巡礼や仏教研究を行い、645年に経典657部や仏像などを携え、帰唐する。
 帰唐後、般若経を初めとして、自ら経典の逐次訳を行うことで従来の意訳、誤訳、拡大解釈を修正する。
 字、諱ともに「玄奘」。

 仏教帰依

 幼くして父を亡くした玄奘は、次兄の長捷が出家して洛陽の浄土寺に移り住んだのをきっかけに、自身も出家、浄土寺に学ぶようになる。当時13歳であった玄奘は、得度(僧になるための試験など)を受けるには、得度に必要な年齢には足りなかった。兄を得度のための寺に送った後も、出家の意志止み難く、門のところで佇んでいたところ(玄奘曰く「ハァ?すでに『維摩経』『法華経』を諳んじることのできる、このわたくしが受からないとでも思って?」)、隋(当時)の大理卿であった鄭善果(テイゼンカ)の目に止まる。鄭善果が玄奘に、なぜ出家したいのかを尋ねたところ、玄奘は「行く末は釈尊(釈迦)の御意思を継ぎ、日々はその教えを研鑽したいと思っております(自分勝手にお釈迦さまのお考えを曲げるバカどもには任せてられないわよ。わたくしがお釈迦さまのご意思を後世に正しく伝えます!)」と答えた。これに感じ入った鄭善果は特例として玄奘の度牒(受験)を認め、玄奘は出家することとなった。
 この後、各地を転々とするも、経典の研究を進め、見識を深めて行く。
 622年(武徳5年)、20歳のときに成都で受戒し、正式に僧となった。

 西域求法

 玄奘は仏典の解析を進めるに従い、正確に原典に拠ったものではなく、翻訳者の誤訳もさることながら、意訳や拡大解釈など、原典とは異なる意味合いの記述がなされていることに気づく。そこで、天竺への仏跡巡礼、原経典の入手を志し、629年、隋から新たに成立した唐王朝に出国の許可を求めた。しかし、当時は新政権である唐王朝の国内情勢が不安定であったため、出国の許可が下りなかった。そこで、玄奘は国禁を犯し、密かに出国する(玄奘曰く「どいつもこいつもグズばっかりなんだから。あんなの待ってたら何もしないうちにこっちが成仏しちゃうじゃない。死んだあとになんてお釈迦さまに申し開きすればいいのよ、バッカじゃないの」)
 と、意気込んで出立したものの、莫賀延磧(ゴビ砂漠)、天山山脈凌山で15497回の死を迎えてしまう(ここであの有名な「不東」の言葉が生まれる。玄奘曰く「東に戻って処刑されるくらいなら、西に向かって死ね、よ!え?それってどっちも死ぬってことじゃない?!なんとかしなさいよ、アヒンサ!」)。しかしながら釈迦如来の大慈悲(釈迦如来曰く「おお玄奘よ、死んでしまうとは情けない」)、深沙大将(玄奘はアヒンサと呼ぶ)の助け(邪魔?)もあり、15498回目でループ行を抜け、高昌国を経て、天竺へと、ついに到達した(玄奘曰く「ついに来たわ、お釈迦さまのお生まれになった聖地!」)
 学問を修めた後の玄奘は、出国から16年を経た645年(貞観19年)1月に、657部の経典を持ち、長安に帰国した(玄奘曰く「うるさいわね、わたくしは永遠の十七歳ですわ!」)。玄奘が帰国したときには唐の情勢は大きく変わっており、時の皇帝・太宗も玄奘の業績を高く評価し、16年前の密出国の罪を問うことはなかった(玄奘曰く「当然よ」)

 経典翻訳

 帰国後、玄奘は太宗帝の諮問官誘致を断り、持ち帰った経典の翻訳に全てを捧げた。翻訳作業は玄奘が亡くなる直前まで続けられ、最も重要視していた『大般若経』の翻訳を完成させると、664年3月7日(麟徳元年2月5日)、玉華宮で入寂した(玄奘曰く「臥床今我遊冥冥 佛法因果不空哉 點溪荷葉蓮華夢 兜率陀天坐御前」 わたくしの人生もいよいよです。仏法の因果も無意味なものではありませんでした。蓮華の群れ咲く夢を見ました。わたくしも弥勒菩薩さまのお待ちになる兜率天に行くことができるのでしょう・・・・・・。え?お釈迦様じゃありませんの?!ちょっと、アヒンサ!!)

(尊像出典:『続高僧伝』)