現代佛師による図像抄 Wii LOVE BUDDHIST IMAGE

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『弘法大師行状絵巻』

ク ラ ス : 真言宗開祖

 俗  名: 氏は佐伯(さえき)、姓は直(あたい)、名は眞魚(まお)
 宝  号: 南無大師遍照金剛

 平安時代の僧。真言宗の開祖。生年774年7月16日、没年835年4月22日、讃岐国多度郡屏風浦(現香川県善通寺市)の生まれ。
 中国より密教をもたらした、伝教大師最澄と並ぶ日本の二大密教租。
 804年7月、海路、唐へと向かい、醴泉寺にてインド僧般若三蔵よりサンスクリットを学んだ後、密教第七祖である青龍寺の恵果和尚に師事、伝法阿闍梨より灌頂を受け、「遍照金剛(へんじょうこんごう)」※1 の灌頂名を与えられる。帰国後、密教思想を根本原理とする真言宗を開く。
 諱が「弘法大師」である※2

弘法大師像容

 牀座(しょうざ)に結跏趺坐(けっかふざ)し、右手に五鈷杵、左手に念珠を爪操る坐像形。袍服(ほうぶく)に衲衣を付ける。
 尊大で野心的な御尊顔。

 ※1 「この世の一切を遍く照らす最上の者」(=大日如来)を意味する。空海が胎蔵・金剛両界において大日如来と結縁したことに由来する。
 ※2 「弘法利生(ぐほうりしょう)」、すなわち仏法を広め、仏法により衆生を済度したことに由来する。

絵巻 巻一

・誕生霊瑞
 弘法大師空海は、合掌した姿で生まれたと云われる。釈尊や聖徳太子など、他でもよくある誕生譚ではあるが、想像すると笑える。

・童稚奇異
 幼名を「眞魚」と名付けられる。幼少より泥土をこねて仏像を作り、草木で編んだ御堂に安置するという、ある意味、高尚過ぎるお人形遊びを好んだ。

・四王侍衛
 朝廷から遣わされた巡察使に、自らを護る四天王の存在を説く(無邪気に妄想を語る)。四天王は、眞魚が生まれたときから周囲に侍り、眞魚にしか見えない、よき母であり、姉であり、友であった。という厨二体質。いや、子供らしいと云うべきか。
 これにより、菩薩の徳(四無量心:慈・悲・喜・捨)を有する者と誤解されることとなり、周囲からは「神童」ともてはやされる。が、生来、物静かで内向的であった眞魚にとっては迷惑以外の何ものでもなかった。眞魚たん、調子に乗って話したことをちょっと後悔。

・俗典鑚仰
 俗人であった父・田公(たぎみ)は、食えない坊主より、出世の望める役人にするべく、京の都に留学させる。眞魚は、15歳より、論語、孝経、史伝、文章を学び、18歳で大学寮に入ると、明経道(儒学)を学ぶ。決して四天王にカンニングを頼んだわけではありません。実力です。

・出家学法
 俗学に飽き、より厨二的世界に魅力を感じ初めていた眞魚は、奈良の勤操(GONZO)※3 の下に行き、大虚空蔵法、能満虚空蔵法を学ぶ。これにより、眞魚は生涯「虚空蔵さま」に萌えることとなる。眞魚が「GONZO」を伊太利語で「阿呆」を意味すると知ったのは渡唐した後である。

 ※3 796年末に創始されたHOKKE-KYOを講話する法華八講のいわゆる次世代法会の好評により、石淵寺の方向性をホッケホウエに見定めた(いわゆる、「ゴンゾ☆法華クラブ」の創設)。

絵巻 巻二

・登壇受戒
 大学を中退した眞魚は、吉野の金峰山や四国の石鎚山などの山野をブラブラし、妄想だけをたくましくする引きこもりの毎日であった※4。この無益な毎日に才能が埋もれることを憂えた勤操は、自らの下へ眞魚を招き寄せる。
 793年、20歳となった眞魚は、和泉国(大阪府南部)の槙尾寺で出家、名を教海と改めた。
 2年後の795年4月9日、22歳の春に東大寺戒壇院にて受戒し、ここで世に言う「空海」と改めることになる。

 ※4 この間、都に帰ることが少なかったため、眞魚の足取を辿る資料は乏しく、不明な点も多い。だが、このフィールドワークによって、空海特有の博学、本草学などの自然科学を身につけたと考えられている。