現代イラスト作家による仏図像抄
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仏教関連事項

四天王寺の建立(593年 推古元年)

満19歳(馬子満41歳)

仏教興隆の詔(594年 推古二年)

満20歳(馬子満42歳)

高句麗僧慧慈が太子の師となる(595年 推古三年)

満21歳(馬子満43歳、善徳満15歳)

法隆寺の建立(607年 推古十五年)

満33歳(馬子満55歳、善徳満15歳)

三経義疏(『法華義疏』、『勝鬘経義疏』、『維摩経義疏』)の完成(615年 推古二十三年)

満41歳(馬子満63歳、善徳満35歳)

人物伝

俗名:厩戸皇子(うまやどのみこ)
宝号:聖徳太子

奈良時代から現代まで愛される仏教界のバーチャルアイドル。※1 キャラ設定では飛鳥時代の皇族、政治家、仏教家ということになっている。日本での仏教普及に務めた最初の功労者とされる。
史伝では、生年574年2月7日、没年622年4月8日、奈良県高市郡明日香村にある仏頭山上宮皇院菩提寺(橘寺)近在で生まれる。推古天皇の下、遣隋使の派遣による中国の文化・制度の研究、冠位十二階や十七条憲法の制定など、天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図る。※2
翻訳や開宗こそしなかったものの、注釈書や縁起の執筆、学問所の設置などを行った。
「聖徳太子」は後世の諡号であり、「厩戸(うまやど)」皇子が当時の名とされる。

バーチャルアイドルといわれる所以は、「聖徳太子」というものがあくまでキャラクターとして存在しているに過ぎないことに拠る。実在の「聖徳太子」は、蘇我馬子の長子である善徳(ぜんとこ)であり、聖徳太子が摂ったとされる政治施策は馬子・善徳親子を中心に企図されたものである。また、仏教関連の事績については蘇我家の個人的な崇仏意識の下に行われたものであり、従来いわれるような物部氏との諍いも神道・仏教を介した宗教的対立ではなく、朝廷内での主導権争いという政治的な理由に拠る。※3

像容

用明2年(587年)、父である用明天皇が病にて崩御するまでの間、太子は日夜、病床に侍り、仏に病気平癒を祈願したとされる。このとき太子16歳、髪を角髪(美豆良 みずら)に結い、袍の上に袈裟を着け、柄香炉を持つ姿で表わされ、『聖徳太子孝養像(きょうようぞう)』と呼ばれる。※4

注釈

※1 熱狂的な人気を得始めたのは鎌倉時代に入ってから。
※2 当時の仏教利用は蘇我氏の個人的な崇仏意識を別にすれば、主に政治的な事由が主であり、忌避項目が多く卜占に左右される古神道の神祇式に拠る不安定な施策根拠を脱し、多神教的ながらも仏の教えに集約される安定した掌握・運営システムを導入して中央集権国家を確立することが目的であった。したがって、「聖徳太子」は平時戦時問わず、ことあるごとに仏教を前面に掲げ、その有用性、威徳性の普及に努めている。
※3 蘇我・物部両氏は互いに婚姻関係を結び、政治的意図からは牽制しつつも協力関係にもあった。両者の宗教的な対応にしても、蘇我氏とて完全な崇仏だったわけではなく、古神道に拠る儀式や慣例は従来通り行っており、また物部氏にしても当初から積極的な排仏行為を行っていたわけではない。彼らの対立が決定的となり、それぞれの信仰に及ぼした影響の起因はやはり政治的主導権争いにあったと考えられる。
※4 『聖徳太子孝養像』は、実際には596年、善徳が法興寺(現・飛鳥寺)の寺司(管長)に任じられたときの落慶式典での姿を像に表したものである。この姿が後の世に 『孝養像』と呼ばれるようになった。実際に式典時の善徳は孝養像でいわれる16歳である。また、善徳が「豊聡耳(とよさとみみ)」とあだ名されたのも、このころ。

所依偉伝

『日本書紀』『上宮聖徳法王帝説』

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仏教関連事項

楞伽宗開祖

人物伝

俗名: 菩提多羅(ボーディダラ)
宝号:菩提達磨多羅(ボーディダルマダラ)

5世紀後半から6世紀前半の僧。
楞伽宗(りょうがしゅう 中国)、中国禅宗の開祖。
在俗時の正確なパーソナルデータは不明。南インドのタミル系パッラヴァ朝において、香至国(カーンチープラム)シンハヴァルマン王の第三王子として生まれたとされる※1
仏陀の正法眼蔵を伝える第27祖・般若多羅について出家し、印可をうけて第28祖・菩提達磨多羅となる。
宋代にインドから中国へ渡海し、洛陽郊外の嵩山少林寺にて面壁※2 を行い、中国禅宗の開祖と呼ばれる。
達磨の後は、六祖である慧能まで伝わり、やがて禅宗五家※3 に分かれている。
長らくインド人であると思われていた達磨であるが、いくつかの記録から、古代ペルシア人(波斯国の胡人)であったと目されている。中国では「碧眼胡(青い瞳のペルシア人)」との記録がある。
自身、クシュティー※4(Kushtī ペルシャ語: کشتی 、ヒンディー語: कुश्ती)の達人であったため、少林寺にて少林拳を創始したとされるような伝説が残っている。実際には、仏陀跋陀羅(ブッダバドラ buddhabhadra)がもたらしたインド武術のカルーリカを独自に修練していた僧稠に、マニュアル化されていなかった土着の戦時戦闘教練と組み合わせ、体術として体系化するよう、アドバイスしたに過ぎない。達磨自身、『易筋経』『洗髄経』という鍛練法を伝えるが、周辺地域の自衛、修行僧の心身健康増進のために記している。
仏教を厚く信仰し大旦那であった梁の武帝の問いに対してすべて言葉少なに「無」を答えとするという、信仰は厚いながらも理解の乏しい在家に対するにはやや厳しい態度で臨んでおり、また慧可に対しては自らの腕を切り落とすまで弟子入りを認めなかったりと、誰に対しても御仏の教えを説くのに態度を変えなかったことを表しているが、この偏狭な性質が災いしてか、最後は菩提流支と光統律師によって毒殺されたともいわれる。

像容

眼光鋭く紅衣をまとった姿で描かれることが多い。

注釈

※1 弟子の曇林説。
※2 壁に向かって9年間、坐禅を続けたとされる伝説。
※3 臨済宗(黄龍派、楊岐派)、潙仰宗、雲門宗、曹洞宗、法眼宗の五家七宗。
※4 打撃技(パンチ、キック)、投げ技、固め技(抑込技、関節技、絞め技)で構成された格闘術。元来は近接格闘術になるため、古来は打撃技も存在していた。

所依偉伝

『景德傳燈錄』